
完璧な世界のなかで
最近、私はアクアリウムや観葉植物といった「育てる」趣味に、笑ってしまうほど深くのめり込んでいる。水を整え、光を整え、肥料を施す。すると、ある朝、目に見えて鮮やかな新芽が顔を出し、魚たちは活き活きと水槽を泳ぎ回る『完璧な世界』が眼前に現れる。
そこにあるのは、私の尽くしたリソースが、嘘偽りなく「生命の輝き」として還元される、完璧にコントロールされた世界だ。この静かな充足感の中で、したたかな気づきを覚え始めた。
魂の在り処
人間には、生まれつきか育つ過程かは定かではないが、根本的な「魂の在りどころ」が二通りある。
- 「人のために尽くすことで己を成す者」
- 「人に尽くされることで己を成す者」
これは性格や能力とは全く別の次元にある、いわば「精神の根幹」のようなものだ。私は、人生のあらゆる局面において、前者の「尽くす側」として生きてきた。家庭では三人の子の親として、リソースを外へ放出し続けることが私の愛情表現であり、アイデンティティだった。
そして仕事においても、経営者として、あるいは管理職として、部下という「種」が芽吹くための「土壌」であり続けようとしてきた。
経営者の観念
私は、経営者という立場に立ちうる人間は、本質的に「与える側」の人間であるべきだと考えている。
そのエネルギーを従業員へ、会社へ、業界へ。さらには社会や、あるいは私が向き合っている自然そのものへと注ぎ続ける。
これは「利他的」といった道徳的な言葉で片付けられるものではない。もっと深い、ベースのレイヤーに存在する「魂の在りどころ」の問題だ。私自身、先代から受け継いできたこの素養——自分を削ってでも環境を整え、他者の繁栄を願うというマインドの根幹——を、最近改めて強く感じている。
資源の枯渇の果て
しかし、最近になって異変が起きた。内臓を蝕むようなひどいストレス。私はハッとした。
プライベートでも仕事でも、私は「与える側」に立ちすぎたのだ。双方が過剰になり、エネルギーの回収が供給に追いつかなくなった。どれほど豊かな土や水でも肥料の添加が必要で、それらは消耗していくものである。私のエネルギーは有限であった。
前述したとおり、魂の在りどころとする行いと身体や精神は別物である。自分はいつからかそこを誤解していたようだ。
調律するため
私がこうして文章を綴っているのは、誰かに何かを説きたいからではない。社会に向けた言及でも、影響力を持ちたいからでもない。これは散逸した精神の中枢を自己補強するための、切実な「調律」作業である。
書くことで、私は自分の有限性を認め、内臓を蝕む澱を排出する。このプロセスこそが、私が再び立ち直るための手段となっている。
新しい統治
自分の有限性が見えたことは、絶望ではなく、新しい戦略の始まりだ。
部下たちが抱える諸問題に向き合うとき、相手が「尽くされる前提」で生きる人種であるならば、そこに無尽蔵にエネルギーを流し込むことは、経営者としての徳ではなく、リソースの浪費と捉えるべきだろう。
相手の「魂の在りどころ」を見極め、対応を変える。それは冷たさではなく、組織と、そして自分自身を維持するための「統治の技術」である。
私はこれからも「尽くす側」の人間として、血脈と精神守り、何かを育み続けるだろう。
「種」を見極め、「土壌」を管理する。
私の人生を、持続可能なものに再編するフェーズが訪れ、またひとつ強くなれたと思いたい。この考えが読んだ方の何かの糧になればそれもまた嬉しい。

zune.