
崩壊する「性善説」
日本の沿岸部が、まるで戒厳令下のようにフェンスと鉄条網で分断され始めている。
「釣り禁止」「立ち入り禁止」の看板が乱立する光景は、もはや日常となりつつある。その引き金となった要因は多々あれど、コロナ禍を境に人口が増えたこと、それに伴って注目されるケースが多くなったことが大きく影響しているだろう。
その注目の中で、防波堤や港湾の管理者である自治体や漁協は、「全面閉鎖」という決断に至った。
行政側の理屈は単純明快で、SOLAS条約(海上人命安全条約)によるテロ対策、港湾法における目的外使用の排除など法的な大義名分はもとより、国家賠償法に基づく「管理瑕疵」への怯えである。万が一、管理地内で事故が起きれば、その責任は設置者へと向かう。余裕のない地方自治体にとって、リスクをゼロにする唯一の解が「物理的な遮断」だったというわけだ。
空虚なバリケード
しかし、現場を見ればその施策が破綻していることは誰の目にも明らかだろう。
黄色いテープやバリケードは、無秩序な侵入者たちによって容易に踏み荒らされている。彼らは警告を嘲笑うかのように、フェンスを乗り越え、あるいは知らないフリをして我が物顔で居座る。
それを取り締まるべき警察力は、民事不介入や微罪処分という壁に阻まれ、積極的な介入を避ける。現場の漁協関係者やボランティアが注意などすれば、逆ギレや暴力のリスクに晒される。
結果として、真面目な釣り人は去り、制御不能なアウトローだけがその場に残る。これぞまさに「悪貨が良貨を駆逐する」典型的な縮図である。さらに言えば、行き場を失った人々がより危険な釣り場や近隣の私有地へ流れ込む「風船効果」により、地域全体のリスクは増大している。

「タダ」という病理
なぜ、このような惨状を招いたのか。
それは我々(釣り業界、アングラー)が長年、海というフィールドを「タダ(公共財)」として甘え、搾取してきたツケに他ならない。「海は誰のものでもない」という言葉は美しいが、それは同時に「誰も責任を取らない」という無責任の温床ともなる。フリーライド(ただ乗り)を許容するシステムが、モラルの低下と地域経済の疲弊を招いたといえよう。
いま必要なのは、感情的な「マナー向上キャンペーン」などではない。そんな綺麗事は、とうの昔に通用しなくなったことは明白だ。
必要なのは、「釣り人を経済資源として定義し直す」という冷徹なリアリズムである。

システムによる選別
釣り場は有料化されるべきだろう。
駐車場を整備し、ゲートを設け、適正な対価を徴収する。その資金で警備システムを構築してもよいし、地方・行政の資金として転用してもよい。無論、有料化・制度化はやりすぎてもコストがかかるばかりなので、ある程度の割り切りは必要であることは補足しておく。
また、これには別の側面もあり、金を払ってでも安全とルールを買う「良識なアングラー」と、コストを嫌い無法を働く「ノイズ」を明確に選別するフィルターとしての役割も生じる。
これらを明確に差別化したうえで、警察権力が能動的に動ける「土壌」を組み込むことが必至だ。曖昧な私有地ではなく、明確な法規制の下で「違反」を可視化する。精神論でマナーを説くのではなく、システムで不法者を排除する段階まで問題は深刻化している。
無法者が落とすゴミではなく、善良な釣り人が落とす「対価」によって、地域社会に利益を還元する。釣り人が地域にとっての「厄介者」から「顧客(スポンサー)」へと変わった時、初めて対等な対話のテーブルが用意されるというのはどうだろうか。
未来の水辺
かつてのように、誰もが自由に、何処でも竿を出せる時代は終わった。それを嘆くことは、善良なアングラー達のノスタルジーに過ぎない。今は前に進むべく、身を削ってでも「ノイズ」と明確な線引を行い、「理解」を得ていくフェーズにあることを受け入れる必要がある。
未来の釣り場を残せるかどうかは、今後の地域政策に対してどれだけ善良なプロフィットとコンセンサスを見いだせるかどうかにかかっている。我々が目指すべきは、管理された自由だ。地域の生活を尊重し、適正なコストを負担し、胸を張って楽しめる場所を作り上げる。
「金を取るのか」と憤る前に、考えてみてほしい。
私たちが守りたいのは、タダで遊べるという既得権益なのか。
それとも、次世代の子供たちが安全に自然と共生し、生命の神秘を享受できる「未来の水辺」なのか。
ルールを守らない者を嘆く暇があるなら、ルールを守る者が報われるシステムを作る側に回ろうではないか。
それが、業界人と遊びを体現する大人としての矜持であるはずだ。

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