
「正義」を騙るノイズ
かつて、テレビ画面の中で繰り広げられた「かいぼり」の狂騒は、ひとつの時代を通り過ぎた。しかし今、私たちの目の前にあるのは、より個人的で、それゆえに厄介な「攪乱因子」である。
一部のインフルエンサーやYouTuberたちが、生物多様性という錦の御旗を掲げ、過激な言動で注目を集めている。彼らは、過去に一部の釣り人が犯した「違法放流」という罪(それはもはや歴史の一部であり、現世代が償い清算しようとしている課題)を執拗に掘り返し、現在の釣り人や外来魚全体を「悪」と断じて対立構造を深めようとしている。
そこにあるのは、真の環境保全への意志ではない。あるのは、対立を煽ることで得られるインプレッションの数々と、一方的な正義感に陶酔するナルシシズムだけではないだろうか。
当事者の不在
ネット上で声を荒らげる彼らの多くは、その水辺に生活を根ざしていない「外側の人」である。
水辺とは誰のものか。それは地域に暮らす人々、そこを生業の場とする人々、そしてその水面を愛する釣り人たち
──すなわち「共有財産(みんなの資源)」に関わる当事者たちのものだ。
つまり議論のテーブルに最優先で着くべきは、利害関係を持つステークホルダー達である。そこに、生物への慈しみや愛情といった情緒的な要素を丁寧に添加し、膝を突き合わせて最適解を探る。 全く利害関係がなく、ただ安全圏から石を投げたいだけの声は、あえて「シャットアウト」する文化形成が必要であろう。
ノイズに耳を傾けていては、本質的な議論などできようはずがない。
エゴとコンセンサス
忘れてはならないのは、「生態系を守る」という行為自体が、どこまでいっても人間のエゴであるという事実だ。
「あるべき自然」を定義するのも人間なら、外来種を選別するのも人間だ。
だからこそ、我々はその業を背負い、最大限の「生命への尊重」を持たねばならない。
感情論で「殺せ」と叫ぶのではなく、どうすれば命を無駄にせず、それぞれの立場を成立させられるか。 不可能な「完全排除」ではなく、教育や地域資源への転用といった現実的な「活用」を見出す。
この高度なバランス感覚こそが、成熟した社会に求められるコンセンサス(合意形成)である。
静かなる潮流
―――ただ、希望はある。
騒がしいネット世論の裏側で、公的な専門家や各種業界、そして良識あるアングラーたちは、すでに静かに、しかし着実に歩みを進めている。彼らは過去の過ちを認め、地域社会と対話し、生態系と共存するための道を模索し続けている。この「静かなる潮流」こそが、未来を創る本流だ。
私たちは、過激な扇動によってこの歩みが止められることを決して許してはならない。彼らの献身的な活動が正当に評価され、社会の共通認識として浸透していく未来。それこそが、私たちが目指すべきゴールである。
分水嶺に立つ私たち
今、私たちは大きな「分水嶺」に立っている。
風潮に支配された憎悪の連鎖に加担するのか、それとも、命への敬意と相互理解に基づいた対話を選ぶのか。
他者を一方的に断罪する快感に溺れるのは容易い。だが、複雑な利害関係を紐解き、互いの痛みを分かち合いながら「共有財産」を守り抜くことこそが、人間の知性であり、本質なのだと私は信じている。
あなたはどちら側だろうか。

zune.