
最近、AIと仲がいい。
今までは何か始めるにしても、とっかかりを探す手間があって、書籍をあさったり、勉強したりと面倒が多かった。
それが今やAIにやんわり尋ねるだけで、あれやこれや、次にやることまで教えてくれる。
知識は相当に増えた。しかし、自分で考えることが相対的に減ったような気がする。
表面的には知識が増え、仕事もはかどり、頭が良くなったような気もするが、どんどん自分というものが薄れていっていることを実感する。
子どもたちから奪われるもの
自分の子どもたちも近い将来にAIと接し、読書感想文も夏休みの工作も全部尋ねてしまうかもしれない。
当然のようにオリジナリティは奪われ、試行錯誤せずに完成形を提示され、イマジネーションは鈍化していく。
年齢相応にあるべき稚拙さやワガママ、その子の個性として温めてあげたい大切なものまで奪われてしまう気がして本当に恐ろしい。
個のアイデンティティとは知的好奇心や興味、そこに向かうまでの己の無力さ、その最中での渇望から生まれる。

合理性が誰でも手に入る世界で
AIが当たり前のように存在する世界では、合理的な戦略やテクニックは誰でも手に入るようになった。
となると、人間に求められるのは対人の力関係だ。
人と会ったり、現場で力仕事をしたり、情報収集をしたりといったAIには成し得ない不合理の世界で価値を見出していく必要がある。
実利は合理的な戦略やテクニックからではなく、不愉快で傲慢な人間同士の歪みから生じるようになる。
人間はポケモンで、AIがトレーナーだ
いわば、人間はポケモンで、AIがトレーナーだ。
せーので相性比べして強いほうが勝つ。はたまた持ち前のパワーや特性でひっくり返すかもしれない。
皆がAIから合理的判断やプロセスを享受できるようになったいま、ビジネスという戦場では如何に有用な手駒を抱えられるかという争いにシフトしている。
単純に少子化だから働き手がどうとかじゃない。如何に魅力的な人材を抱えられるかが焦点となる。
子どもたちに必要な「不合理」な体験
AIが当たり前となった世界では、子どもの頃から人と人の関わり合いの訓練や、自然とふれあいイマジネーションを育むことが何より大事になる。
効率的な答えではなく、回り道や失敗を通じて得られる「自分だけの発見」。
これこそが、AIには代替できない人間の価値だ。
そんなディストピアを否定したい
AIが当たり前のように存在する世界を意識していれば、そういった理解と動きが自ずと現れるだろう。
自分もその一人だと思いたいが、そんなディストピアが訪れることを出来れば否定したい。
けれど、現実は進んでいく。
だからこそ、今のうちに人間らしさを守る方法を考えておかなければならない。

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