
気づけば、政治について語ることは"ダサい"とか"面倒くさい"と思われるようになった。
うるさい人ばかりが前に出て、静かな人たちは距離を取る。
でも、それは私たち自身が選んできたことなのだろうか?
あるいは、そう思わされてきたのだろうか?
内政を腐らせ、他国を乗っ取るという戦術
歴史を振り返れば、「戦争をせず、他国の内政を腐らせて乗っ取る」戦術は何度も使われてきた。
日本自身もかつて、清朝末期の中国に租界や治外法権を押し付け、合法的に支配していた過去がある。
国家の内政を腐らせるのに、数十年あれば十分だ。まっとうな政治家にも寿命がある。
それまでに工作員や外部勢力が"自国の政治家のふり"をして政界に潜り込み、多勢に無勢の状況をつくる。
これが古くて新しい支配の形だ。
自由と民主主義を逆手に取るパトロネージュ
宗教団体や特定の業界団体が、自由と信教の権利を活用して政治に入り込む。
献金や組織票を武器に、政策や議員を"囲い込む"。
これは「パトロネージュ(利益誘導政治)」と呼ばれ、民主主義を内側から腐食させていく。
こうして政治は特定の団体の利益に偏り、いつの間にか一般国民の声が通らなくなる。
これが「形骸化した民主主義」の正体だ。
若者の「見切り」
現代の若者は、この構造的な腐敗を察知している。
頭の良し悪しではなく、直感的に「これは自分のための政治ではない」と感じているのだろう。
だから関わらない。
これは無関心ではない。「見切り」だ。
しかし、それでも日本が立ち直る芽はある。希望は「派閥政治」から距離を取り、信念と政策で動く"政治主導型"の政治家にある。
本当に変えたいなら、「誰を選ぶか」ではなく「どう見るか」
自民党の中にも、特定団体の支援に頼らず、横断的で中庸な立ち位置を保つ派閥がある。
派閥のラベルや所属ではなく、その政治家が何を恐れずに発言しているか、誰に忖度していないかを見てほしい。
そして、もし本当に日本の未来を想って戦っている政治家がいるなら、若者を"選挙に行け"と安易に煽るのではなく、その信念と行動を、誰にでも見えるように、SNSや日常の言葉で発信してほしい。
「ダサい政治」は意図的に仕掛けられているかもしれない
政治活動の持つダサさ、陳腐さ、宗教性、排他性。
こうした空気感こそが、若者を遠ざけ、静かな有権者の政治参加を止めてきた。
これは偶然ではない。
むしろ、敵対勢力が意図的に仕掛けた「ネガティブブランディング」なのかもしれない。
「政治に関わると恥ずかしい」「変な奴と思われる」――そう思わせた時点で、彼らの勝ちなのだ。
政治を語ることが「当たり前」になる世界へ
政治は選挙の時だけのものではない。
日々の生活、友人との会話、子どもへの教育、あらゆる場面で語られていい。
"騒がしい人"ばかりが政治を語るのではなく、"静かに考える人"が、普通に政治の話をできる社会。
それが本来の民主主義だ。
若者が政治に興味を持てるように
難しい言葉や正義感じゃなくてもいい。
「ビジュがいいから」で選んだ政治家でも、一票を投じるきっかけになれば、それはもうこの国にとって救いだ。
興味を持つこと、関わること。たとえ入口が軽くても、そこからしか始まらない。
政治を"自分ごと"に戻す第一歩は、「好き」「気になる」そんな直感からで、十分だ。

zune.